「玉」とよばれる紙製の球体に「星」と呼ばれる火薬の玉を詰めて打ち揚げる花火である。打ち揚げにも火薬を用いる。打ち揚げ時と同時に導火線に点火され、所定の高さに到達すると、導火線が燃え尽きて玉内部の割火薬に点火されて「玉」が破裂し、「星」が飛散する。このとき「星」には、光の尾を引きながら燃焼するもの、落下途中で破裂するもの、色が変化するものなど様々なタイプがある。「玉」の内部に「星」を均一に詰めることが重要であるが、詳細な技術は花火師の秘伝とされる。
一般的に、日本や中国などアジアの打上花火は、打ち揚げ時に光が同心円状に広がるものが多く、花火玉そのものの形も球形をしている。これに対し、日本国外(特に欧米諸国)の花火は打ち揚げても円状にはならず、花火そのものの形も円筒形をしている。円筒形の花火は、球形に比べ、火薬量などを増やすことができ、華やかな光や色を出すことが可能であるが、破裂途中で色の変化をさせることは困難だとされる。かつて、日本の花火も同心円状に広がるものの製造は困難で、一部の武家花火師のみの秘伝とされていたといわれるが、明治期に鍵屋十二代目弥兵衛が技術を取得し、以後、円形の花火が多く作られるようになったとされる。
日本と欧米の花火球の形の違いの理由は、昔、日本では河川で打ち上げて、観客はあらゆる方向から観賞していたため立体的に発光しなければならなかったのに対し、ヨーロッパでは、貴族の館など建物の裏から打ち上げていて、観客は一定方向からしか見なかったため、平面的な発光でもよかった、というのが理由とされる。
「割物」は代表的な打上花火で、破裂したときに星が球状に飛散するものである。中でも星が菊の花のように尾を引いて広がるものを「菊物」、尾を引かないものを牡丹に喩えて「ボタン物」とよぶ。また、二重の球状に広がるものを「芯物」という。
「ポカ物」は星が飛散しないもので、ランダムな方向に星が飛んでいく「蜂」などがある。
「型物」は「割物」の変形で、土星などの形に星が飛散するものである。
本で花火が製造されるようになったのは16世紀の鉄砲伝来以降である。
幕府の御金改役の後藤庄三郎光次の著作(幕府の儒学者の林羅山とする説もあり)とされる『駿府政事録』という日記・政事録によると、1613年に徳川家康が駿府城内で外国人の行った花火を見物したというのが、花火という語で確実に花火が使われたと分かる最も古い記録である。『宮中秘策』(1741年)、『武徳編年集成』にも引用されている。また、『古事類苑』に、花火の起源や詳細が紹介されており、『駿府政事録』の記述もある。
1712年(正徳2年)頃出版された『和漢三才図会』(寺島良安著、江戸時代の図入り百科事典)には、鼠花火、狼煙花火などが紹介されている。
異説として、1582年4月14日にポルトガル人のイエズス会宣教師が現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録がある。(『イエズス会日本年報』『ルイス・フロイス日本史』)
1585年に、現在の栃木県藤岡町で、皆川山城守と佐竹衆が戦のなぐさみに花火を立てたという記述もあるが、戦の最中に当時貴重だった火薬をそのようなことに使うはずがないという主張もされている。
伊達政宗が居城の米沢城で、1589年(天正17年)7月7日夜、外国人(大唐人)によって、花火を行ったという(元禄年間作成といわれる伊達家治家記録;『貞山公治家記録』、『伊達天正日記』など)。徳川家康の記述内容との酷似や仙台七夕花火の内容と酷似する。『伊達家治家記録』が一般に出版されたのは、仙台市図書館蔵書によると、平重道・責任編集『仙台藩史料大成・第1期』(出版年 1972-1982)とある。
『信長公記』太田牛一著 巻十四(天正九年辛巳)御爆竹の事という資料に“正月八日、御馬廻、御爆竹用意致し、(中略)御爆竹申し付けの人数、(中略)この外、歴/?、美々しき御出立、思ひ/?の頭巾、装束、結構にて、早馬十騎・廿騎宛乗せられ、後には、爆竹に火を付け、どうと、はやし申し、御馬ども懸けさせられ、其の後、町へ乗り出だし、さて、御馬納めらる。見物群集をなし、御結構の次第、貴賤耳目を驚かし申すなり”と記載があり、1581年(天正9年)正月15日に、祝賀の行事として、安土城下で、織田信長が馬揃えを行い、爆竹(花火の一種)を使用したとある。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
今年の夏打ち上げ花火で事故がありましたね。怖いです。
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